医療についての私の考え

☆専門医制度について

 日本専門医機構が2014年5月7日に発足した。これは第三者機関である。2020年度から認定を始める予定とのこと。現在の認定制度では一部の学会の基準が甘いとの指摘があるようだ(日本経済新聞朝刊、42面、2014,5,8日付け参照)。専門医制度を新しいものに変えるということは、現在の専門医制度に問題があることが前提となっているはずだ。そうであれば、現在の制度の問題点について「一部の学会の基準が甘い」という主観的なものではなく、客観的にデータで示して欲しい。私の経験では、ある学会の専門医についてその診療科の専門医としての能力に疑問を感じたことがあるが、それは主観であって事実かどうかはわからない。専門医はできる医者だという私の思い込みが強いだけかもしれない。
 「医師」という肩書きでさえ、もてはやされる世の中だ。「専門医」という肩書きはなおさらだろう。「医学博士」という肩書きもそうだ。現実を見れば、肩書きが同じでも能力にはバラツキがある。この能力のバラツキが少ないほうがその肩書きで人を判断する場合に役に立つ。患者と医師の間にはそもそも情報の非対象性があり、患者は医師の能力を見抜くすべを持っていないことが多い。それゆえ、肩書きで判断せざるを得ない。このような背景から新しい専門医制度で「専門医」という肩書きをもった医師の能力のバラツキが減ることを期待する。更新時の試験なども厳しくするといいと思う。


☆医師、看護師資格について


 井伊雅子さんによれば、英国、スウェーデンでは高血圧症、慢性心不全、糖尿病での医療機関への受診の間隔が日本より長く、その間の管理は専門の看護師がおこなっているとのことだ。このような方法で医療をおこなっても平均寿命が日本とあまり変わらないという。日本もこのようにすれば医療費を削減できるであろうし、医師が患者のためにもっと時間をとれる。(日本経済新聞朝刊、29面、やさしい経済学より引用、一部改変、2014,2,21日付)
 このことからも、症状の安定した患者については看護師により多くを任せ、看護師の力をもっと活用するべきだと私は思う。医師は患者の症状が不安定な場合、変化があった場合に力を注げばよい。
 ちなみに、看護師でも医療行為ができるようにする「特定行為研修制度」が2015年10月に施行されている。研修の修了者は2016年度末時点で583名。指定の研修機関は2017年8月時点で54ヶ所。研修の修了には約1年、受講に約50万円かかるとのこと。これで看護師でも可能になる医療行為は21区分38種類である。例えば、病態に応じたインスリン投与量の調整(血糖コントロールに係る薬剤投与関連)、臨時薬剤投与(感染に係る薬剤投与関連)、脱水の程度の判断と輸液による補正(栄養・水分管理に係る薬剤投与関連)を医師の指示を待たずに措置できるようになる、(日本経済新聞朝刊、2018年1月15日、15面 医療・健康より引用)。研修期間の長さ、費用が気なるところだが、なかなか素晴らしいと思う。さらにスキルアップをしたい看護師にはさらに研修を行い、いずれはプライマリーケアを担当できるくらいの看護師を育ててほしい。私の個人的な見解だが、プライマリーケアができる水準になった看護師は三流プライマリーケア医程度なら凌駕すると思う。


 試験が先、実習が後の制度の導入

 医師や看護師は、医学部医学科、看護学科を卒業しないと国家試験の受験資格が得られない。それはおそらく実習が大きな意味を持っているからではないか思う。医師国家試験問題は私はあまり解けないが、看護師国家試験過去問題は医療者ではない私でも多少の勉強で9割くらいは正解できる水準になった(現在は保健師国家試験の勉強中)。
 しかしながら、私は現制度では看護師資格は得られない。もちろん、テストで点が取れるだけで看護師の資格を与えるのは危うい。それならば、看護師国家試験というペーパー試験の合格者に対して1年間の研修を導入して看護師の資格を与えるという道を作ってもよいのではないか。
 司法試験では試験の合格者に対して1年間の研修を行い、弁護士、検察官、裁判官として働けるようにする。それと同じように「試験が先、研修(実習)が後」という道が医療の世界にあっても良いと思う。


 看護師の医師化

 看護師を医師にすることが医療の質をあげる良い方法だと私は考えている。私の知る看護師の中には医師よりも患者のことをよく観察しているのではと思わされる看護師も多い。さらに、医師に受けるアドバイスより看護師のアドバイスの方が当たっていると感じることもある。患者と関わる時間も医師より長い。このような看護師たちが医師になれる道を作るべきである。
 現在は専門看護師の認定はある。それから、特定看護師(ある程度の医療行為が自律的にできる看護師)を導入しようという動きがある。しかし、これらは、看護師はやはり看護師であり、医師とは一線を画す。
 私は看護師の一部を医師にすべきだと考えている。例えば、医学部医学科2年次、3年次くらいへの編入枠に「看護師枠」を作るのはどうか。看護師経験5年以上などの条件をつけて、○○学の問題を解くような頭の良さばかりで競う試験を課すのではなく、医療現場の経験があるのだからそのまま入れてしまう。おそらく、医学生は医学部受験時の5教科の点数、偏差値なるもので自分たちより劣っていた「看護師枠」で入った学生たちに授業や実習で勝てない場面に直面するだろう。現場の経験の差だ。それは医学生への刺激にもなる。
 ちなみに、看護師はまだまだ女性が多いので、「看護師枠」を設けることで医師になる女性が増える、女医が増える。世の中の半分は女性。女性のことをよく知るのは女性である。医師はまだまだ男性社会。例えば、厚生労働省によると医療機関で働く2016年末の女性医師数は6万4305人で全体の21%である(日本経済新聞朝刊、2018.1.29、29面 女性欄より引用)。経済界では女性経営者の手腕が評価され始めている。女性医師がもっと増えれば医学界も変わるだろう。
 なぜ、このような道を用意しないのか。看護師には医師になるのにふさわしい心を持つ者も多いと思う。

 ※厚生労働省によると、医療機関で働く医師の男女比は年齢層が若いほど女性の割合が高くなり、30代では31%が女性である(日本経済新聞朝刊、2018.1.29、29面 女性欄より引用)。この記事では医療機関で働く女性医師を増やすにはキャリアと出産・育児との両立を後押しすることが必要だという視点で書かれている。


 医学教育について

 医師は医療保険制度の歴史を知っておくべきだと思う。日本では、1922年に健康保険法により企業健保が設立した。そのような大企業の労働者は医療保険が使用できたわけである。また、単独に健保を持てない企業(中小企業)の労働者は政府管掌健保(協会けんぽ)に加入することができ、やはり医療保険が使用できた(以上を被用者保険という)。問題はそれらに入っていない者(農家などの自営業者、無職の者)が医療を受けるときに医療保険が使用できなかったことである。彼らが医療保険を使用できるようになったのは1958年に国民健康保険法が制定された後のことである。つまり、40年近く、医療を受けることについての格差が放置されていたことになる(日本経済新聞朝刊、2017年2月12日、13面を参照して記述)。記事では農民の事例をあげており、その医療格差を「貧しいがゆえに病が多く、病は貧乏に拍車をかける」と表現している。現代日本は国民皆保険が実現されており、高福祉国家とされるが、過去には残酷な医療格差が存在していた。日本人の文化・思想の中にそのようなものを生じさせる物の考え方があるのだろう。医学教育ではこのような日本の過去を教える必要があり、また通常の学校教育においてもこのような日本の負の側面について教える必要がある。現代の私たちが医療格差を放置した者たちと同じ思考で物事を考えないように戒めなければならないと思うのである。

 「医師として不可欠なのはリアルに患者さんの生活を想像できる(こと)」と塩尻俊明さんの言葉(ドクターG、2017.2.15放送による)。医学教育にもこの視点を取り入れてほしい。おそらく地域医療、訪問診療の実習ではある程度患者さんの生活の実際は見れますね。そうではなく、通常の診療のときに「想像」できるかということです。


☆医療機関内の職員の健康について

 医療機関内には医師以外にスタッフがいる。そのスタッフの体調の変化に気を配る余裕はないのだろうか。ある医院で事務員が手に皮膚炎を発症していた。声をかけたところ、痒くなって1,2日らしい。強いアレルギーっぽい反応に見える。これだけ手に目立った症状があるのにスタッフ同士、声はかけたのだろうか。こういうものは早い段階で適切に対応すれば効果は高い。声をかけたきっかけで事務員が看護師に相談したように見えたが、こういうことは自発的に行われてほしい。このような職員の健康への配慮の有無は、おそらく組織としての医療機能にも影響を及ぼすだろう。仲間うちでの意思疎通、思い合いができないままで患者への対応がチームとして行えるのだろうか。偶然か、ご高齢の患者がどこかへ誘導され、少しの時間医療スタッフが離れているうちにつまづいてだろうか、患者が転んだ。気付いて駆けつけるのが私より遅い。これはどういうことだろう。そもそもこういう事態を予想できていないのだろうか。ご高齢の患者である。転び方が悪ければ、打ち所が悪ければ、障害が残ったり、命に関わる。これらも結局のところ、職場での人間関係を含めた思い合いが足りないことによって生じるのではないかと思う。


☆医療機関が「医師」ではなく「機関」であることの意義について

 個人クリニックといえどもクリニックは医師ではなく医療機関である。医師が指揮をとっていることは確かであるが、チームで患者対応をするからこそ機関なのである。例えば、医師1人、看護師2人、医療事務2人で機関が組織されているとしよう。患者を1日50人とすれば、医師は1日50人を診なければならない。診察は医師のみができるから減らすことができない。この点からして医師は機関の中で最も多忙である。当然、問診は不足しがちとなるだろう。観察も不十分になるかもしれない。
 医師が絶対だからという責任逃れの論理で、看護師と医療事務が患者を診ること(彼女または彼らにとっては話したり、様子を見たりすること)を放棄するというのはどうだろう。機関というのは全体として医療という目的を効果的に達成するために組織されたものであって、医師の問診が不十分になることが予想されるなら、周囲が補うのが筋である。権限がどうかという問題ではない。
 ちなみに50人の患者を全医療スタッフで割ると一人当たり10人という計算になる。かなり密な医療である。医師の医療の質ではなく医療機関の医療の質として考えた場合、この数字が医療効果(患者への医療支援)の最大値となる。医師以外のスタッフが患者に対する責任放棄をしているのであれば当然この数値にはならない。医師以外のスタッフにはこのことをしっかりと理解してほしい。


☆診療所、病院の評価、口コミサイトについて

 一般の人と医師は医療に関する知識に差がある(情報の非対称性)。知識の量が上のものは知識の量が下のものを利用することができる。そのような悪意のある医師がどのくらいいるかは知らないがそういうこともできることは確かだろう。
 医療機関が少ないと競合が少ない。そのため良いサービスを提供するということに対してのモティベーションは医療者の善意に依存している。患者は医療機関を自由に選べるので各医療機関は患者を独占していないが、実際には患者はそれほど自由に医療機関を選べない。
 まず、患者は今通院している診療所、病院の医師が標準的な医療を行っているかが分からない。優れた医師かも分からない。仮に医師の治療に不満があり他の医療機関に変えたい場合、次の医療機関を探し、離れた場所であれば交通費の問題、当然、そこまでの通院のための時間の問題、初診料、および検査などのやり直しなどコスト負担が生じる。その次の医療機関の医師も並の医師だった場合、また同じことを繰り返し、患者はコストを負担する。つまり、自由に医療機関を選べる患者は金銭的、時間的に余裕のある者に限られる。
 患者側はできるだけ回数を少なく、良いサービスを提供する診療所、病院を見つけたい。それができれば、このようなコストを削減することができる。その一つの方法として、患者側の視点で診療所やクリニックのサービスを評価したデータベース(口コミサイト)が役に立つ。

 例えば、http://caloo.jp/hospitals/search のようなサイトである。

 しかしながら、地域によっては口コミ数が少なく、少数の口コミでは各診療所、病院を正しく評価しているとはいえない。その患者がたまたまその診療所、病院の医師と相性が良かった、悪かったことを反映しているに過ぎないからである。仙台市青葉区で検索すると2014年3月末現在、575件の診療所、病院がヒットするが、口コミの数は各診療所、病院で1、2件程度である。仙台市でさえ、この状況である。
 また、診療所、病院を評価するならば医療者が評価すれば医療の質を正しく評価できる。医療事務員が評価すればその医療機関が儲け主導になっているのかいないかもわかるかもしれない。ただし、医師を頂点としている組織であるため、医師に雇用されたり、医師に指図される立場の看護師、理学療法士、臨床検査技師、医療事務員などが自由に意見を言えるかが問題となる。
 私としては、このような口コミサイトは匿名性があるので、特に看護師などの医療従事者が何か病気をした際に、通った診療所や病院について、ある程度の医療の知識を持つ視点からたくさん評価してほしいと思う。
 話がそれるが、医師の間ではどの医師がいい医師かという評判はあるようだ。ただし、その場合でも、医師間に暗黙の了解があるようでなかなか本音をいえないように見える。


☆診療所、病院、医師の良し悪しの見分け方について

 2014年11月23日(日)放送の「駆け込みドクター!」で看護師100人に聞いたいい病院の見分け方というコーナーがありました。こういう病院はダメだという特徴を挙げていたので、それらの項目を箇条書きで記しておきます。括弧内は私が付け加えています。特に気をつけてほしいものに下線を引きました。1点、いい病院の特徴にも言及していましたのでそれを記しておきます。

 ・セカンドオピニオンを嫌がる医師(自分の患者を手放したくない。自分の診断、治療方針に自信がない)

 ※「セカンドオピニオン」は今かかっている病院、医師の診断、治療方針に疑問を持ったときに、他の病院、医師に意見を求めることです。

 ・待合室に加湿器がない診療所、病院(待合室における感染を予防するために必要なことを怠っている)

 ・看護師を小バカにしている医師(看護師を軽視している。チーム医療になっていない)

 ・受付の感じが悪い(隅々まで教育が行き届いていない)

 ・医師に説明を求めても「後は看護師に聞いて」と言う(患者に対する説明は本来は医師の役割)

 ・汚れている(少数の看護師の意見ですが記載しておきます)

 ・ナースステーションがガヤガヤしている(これも少数の看護師の意見ですが記載しておきます)

 ・熱心な問診を行なう(これはスタジオの医師たちの意見でした)


 ここからは私個人の意見を述べます。開業医(診療所)にも素晴らしい医師が潜んでいたりします。大学病院で教授になってもおかしくないと仲間内で言われていたような医師もちまたにはいるのです。例えば、実力があっても大学病院的な組織になじまないため、そちらの方向へいかなかったケース、研究より臨床がすぐにでもしたいというケースなど、それぞれ事情があるようです。また、開業医の中でもお金持ちとそうでない場合があることに目を向けてください。もともとお金持ちでしたら診療所に最新の設備を医師の実力とは無関係にそろえることができるでしょう。ですから、設備が素晴らしい診療所の医師が腕がいいとは言えません。逆に設備が古くともそれを診療の技術や勘でカバーすることができる医師もいるわけです。また、なんでもかんでも機器に頼らず、治療も薬剤に過度に依存せず、院内処方で患者の医療費を最小限にする医師もいます。そのような、ちまたにいる優秀な医師が他の医師の模範となるような指導的な役割につけないのはもったいないというのが私の意見です。ある診療所で「先生は教授になってもおかしくないと言われていたと聞きました。最近は論文は書かないのですか」と尋ねたら「開業医に論文が書けると思うかい?」と言われました。少しあきらめを含めたような口調に聞えました。このような現状を悲しく思います。


 日本医師会が医療ミスや医療事故を繰り返していることで医師に改善勧告や指導をすることがあります。2013年〜2016年度の累計で27人とのことです。医師賠償責任保険に支払い請求があったケースについて調べることで判定したようです。対象者の名前や病院名、ミスの詳細は公表していないようです。以上、日本経済新聞、2017.6.27、38面、社会、より引用しました。このようなデータが公表されるようになると医師や医療機関の良し悪しが判断しやすくなりますね。
 日本医師会は全国の医師の半数強、約16万8千人が加入しています(日経朝刊、2017.6.28、1面、砂上の安心網より引用)。つまり、先ほど述べた改善勧告や指導がされるほどの医療ミスや医療事故件数は全数ではないと言えます。


☆小児の医療について

 小児科でない場合の医師や看護師の子どもの扱いが気になる。そういう医師や看護師が子どもを理解している気がしない。病院に保育士を置けないものだろうか。小児は診察室でいろいろされて泣き叫ぶことが多い。待合室に他の子どももいるのに、その子たちが次に診察を受けるのに恐怖感を持ったり不安になると思う。防音とかにできないものなのだろうかと思う。小児が泣き叫ぶのは不安や痛みで母親などの保護者に助けを求めるからだが、不安の部分の軽減は工夫次第でできるのではないか。保育士ならばこのくらいのことは考えられるし、ある程度対応もできる。
 そもそも不安や痛みを感じないように積極的に催眠鎮静薬は使えないものなのだろうか。手術時には心的外傷が起こらないように麻酔の導入などで気を遣っている医師もいるようだ。ミダゾラムなどが有用らしい。健忘を起こさせるのだとか。普段の診療でももっと使えないものなのだろうか。そのへんが医師ではないので私にはわからない。
 とにかく、私も将来、子を持つことがあり、医師を通して、かわいい我が子に痛い思いをさせる経験をすることもあるだろう。そう思うと何か方法はないだろうかと考えてしまう。
 できると評判の小児科の先生たち(具体的に思い浮かばない・・・)が患児にどのように接しているのかを見てみたい。知りたい。小児科医もぴんからきりまでだと思うので、できない小児科医の診療はすごいのだろうな・・・。
  ちなみに宮城県立子ども病院は「子ども療養支援士」という役割の人がいるらしい。順天堂大順天堂医院では「子ども療養支援士」、保育士、音楽療法士がいるらしく、保育士らが医療カンファレンスにも参加するとのことだ(日本経済新聞朝刊、26面、生活欄参照、2013,8,22日付)
 また小児科医不足については小児科医の女性比率が高い(3人に1人が女性)ため、出産や育児の影響で働けなくなっていることが小児科医不足の一因であるという考察がある(日本経済新聞朝刊、26面、生活欄参照、2013,8,22日付)。小児科医が不足すれば、寡占状態になり競合が起こらないためサービスが低下し、小児科医も多忙で心に余裕がなくなる。これは小児医療にとってマイナスだと思う。女性のことをもっと考えた社会づくりが必要だ。



☆医療従事者の心得について

 医師や看護師は機械ではない。人間である。医師、看護師、患者にはそれぞれ役割というものがあり、人間関係という関係性を持っている。三者ともプライドを持つし、弱みを見せたくなかったりする。そのなかで一番立場が弱い、助けを求める状況にいるのは患者である。自身の病気や治療法についての恐怖も持っている。それなら、医師や看護師は患者がそういう状態であることを前提とした対応をしなければならない。それがプロだと思う。関係性が人間関係である(機械との関係ではない)ことから、医師や看護師は決して完璧な者ではなく弱い部分も持った人間味のある姿を見せなければならない。医療従事者から心を開いて、患者がすべてを話せるような場を作るようにするべきだ。オープンな医療従事者はすばらしい。おそらく、現段階では看護師にこれができている人が多いと思われる。医師はやはりプライドがまだまだ高すぎる。

 行動、言葉は相手の体に影響を与える。例えば、心ない言葉や行動で相手をいらだたせて心拍数や血圧を上げることができる。逆に相手を気遣う言葉や行動で相手に安心感を与えて心拍数や血圧を下げることができる。中学校や高校で学ぶ範囲の生理学の知識があればわかるはずだ。体は複雑なシステムだがおおまかな正しい理解ができればよい。
 行動や言葉が身体に影響を及ぼすことを前提とすると、相手に対して不適切な言葉を与え、行動をすることは相手の体に対して傷害行為を行っていることに近い。継続的に相手に心理的ストレスを与えることによってさまざまな病気が発生するというのはよく知られていることだと思う。私はこれらを傷害行為とみなしてもいいと思っている。逆に継続的に相手に適切な言葉を与えて行動することは、相手の体に対して薬物を用いないで良い治療を提供していることと同じだと思う。
 当然、外科的処置、投薬がなければ治療できない病気はたくさんある。しかし、継続的に言葉や行動により相手を尊重することで治療できる病気もあると私は考えている。医療従事者の中で、言葉、行動の影響について知らない者、あるいは知っていても実践していない者は患者を相手にしているのではなく「ヒト」という「物」に向かって「作業」しているのだと思う。そうではない良い人間関係が大事だ。
 これらのことから、たとえば、上手なカウンセラー、少し論点がずれるが相手の体に上手に触れることができるマッサージ師(相手の身体へ適切に触れることは大事)は決して医師に劣るものではない。

 これらのことを考えると、すぐに投薬するのは疑問である。患者の状態が危険なら仕方ない。そうでないなら投薬は少なく、その患者の生活背景、心理的側面からサポートするのがよいと思う。薬剤に副作用があることを医師は知っているはずだ。医師は心理学もしっかりとやってほしい。生活習慣病などの患者に対して指導管理料などを取っている場合にはなおさらである。どの患者にも同じことを言うなら、短い冊子を患者に読ませることと変わりない。機械に指導されているのと同じだ。患者の生活背景、心理的側面からそれぞれの患者に可能な指導をオーダーメイドしなければならないと思う。そして、それを伝えるにはコミュニケーション能力が必要だ。医師の心理学的能力の有無で患者のコンプライアンスはおそらく変わるだろう。

 医者は患者が利用するものだ。人格者の医師なら全部を任せてということもできる。しかし、それだけの医師がどのくらいいるだろう。3分診療で、問診、聴診、触診、打診をろくにしないで投薬する医師を信じることができるだろうか。ちなみに、簡単な患者は儲かる。3分診療で済むし、治る。今、偽医者がいるかどうかはわからないが、医師免許を持たなくても、そういう簡単な患者は看護師のレベルで十分診療ができると思う。治らなかったらどこか別の病院を紹介すればいい。こんなふうに医師にうまく儲けられないように、患者は知識を持ち、医師を利用するべきだ。原因不明の病気を持つ患者や治らない患者のたらい回しの話をテレビのレベルで聞いたことがある。現実のレベルで知らないので強くは言えないが、どうしてああいう現象が起こるのかを考えてほしい。責任をもって患者を診ない医師が多いことの表れではないか。これは非常に残酷な矛盾だ。そういう患者ほど医療を必要としているのに、たらい回しが起こる。そういう患者は生活も困窮している場合も多い。医師側は、患者が治らなければ評判は悪くなるし、難しい患者は手間がかかる、コストがかかるといって避けたいわけだ。


☆医療者でなくても病気の鑑別やケアができることがなぜ必要か

 家族が倒れたとき、また病気のときに家族に何もできないと、それが大切な相手であるほど強い無力感を感じることになる。医療者ではない者、家庭という状況でできることは限られている。また何かができたとしてその効果はそれほど高くはない(即効性のある効果で考えた場合)。しかし、そのような状況でも、ほんの小さな対応ができただけで無力感は少なくなるはずだ。「何もできなかった」と「少しはできた」という思いの差は大きい。大切な相手だからこそ大きい。
 無力感というものは家族を亡くしたあとも持ち続けることになる。何もできなかった、小さなことだけど何かができた、両者とも家族の死という形で結末を迎えた場合、その後に持ち続ける無力感の大きさがおそらく異なる。亡くなった側からしても家族自身が自分のために行動を起こしたということを見て、知っていれば、それはより大きな愛を感じると思う。
 私はこのような考えを持っているため、医療資格を持たなくてもできるケア、病気の鑑別についてまとめたいと思っている。それに加えて、栄養学は疾病の予防に役立つし、薬学もOTCレベルのセルフメディケーションに役立つので、一般の方にもそれらを知ってもらいたい。家庭看護、一般家庭で利用できる医療機器の上手な活用、簡単な救急対応についても知ってもらいたいが、それを一般の方がおこなっても看護師の水準にさえ届かないだろう。それは当たり前だ。しかしながら、家族の命を医師や救急隊のみに任せるという状況は避けたい。大切な人の命には、力がなくても自分が関与しなければならない。

☆患者にとって適切な環境について

 ナイチンゲールの「看護覚え書」で触れられているように患者さんの環境には十分配慮しなければなりません。環境の影響は非常に大きいということです。この点について、住宅新報2016年9月6日号(第3481号)の13面(住まいは長寿を支えるか4)にて取り上げられていました。住環境の視点です。家を持ち、そこに長く住むのであれば当然、その住環境の影響が健康に大きく影響を与えるという意見です。入院している病室の環境が整えられるべきなのはもちろんですが、現在健康な人にとっても住環境を整えることは予防医学的な考え方すると非常に重要です。長い時間、長い年月、その環境で過ごすからです。自宅の環境も見直してみましょう。

 日本の病院を「施設」のように寂しい環境ではなく、「明るく元気な気持ちに」なれるようなデザインを取り入れようという動きが出てきた(住宅新報、2017.1.3、11面、特集を参照)。看護師を経て建築デザインの世界に入ったドムスデザインの戸倉蓉子氏がホスピタルデザイン研究会を開いている。コンセプトは病院ではなく「健院」を作ることであるようだ。この方向性には私も賛成である。
 住宅においては、西欧先進国では居住基準が定められており、日本でも基準を定めることが必要ではないかとの主張が見られるようになった(例えば、早川和男氏、住宅新報、2017.1.3、10面、特集を参照)。早川氏によれば、日本では居室面積に下限がなく、1つ以上の居室と共用の玄関と便所および台所があれば「住宅」と定義されることから、例えば、3畳の居室が10室、共用の入り口、トイレがある集合住宅が10戸として数えられることを挙げている。これは良好な住環境とは言えない。早川氏によれば、西欧では不適格住宅を居住禁止にしているとのことであり、このような住環境の規制には私も同意する。ただし、すべての国民に良好な住環境を与えることが経済的に可能かどうかは別問題である。


<医療、社会福祉データベース>

 米国における保有資産の世代間の偏りについてのデータ。46-64年生まれが約60兆ドル。この数値は65-80年生まれの2倍、81-96年生まれの10倍とのこと。また、米政治専門誌ヒルの2020年8月の調査では社会主義に「親しみがある」と答えた米国民の割合を年代別に示した。50歳以上で3割前後であるのに対して18-34歳は52パーセント、35-49歳は59パーセントとのこと(日本経済新聞朝刊、1面、「パクスなき世界 大断層3」、2020年12月23日付け、よりデータを引用。文言は文章としてわかりやすくなるよう改変)。
 資本主義のほころびが出てきたと私は考える。

日本医師会は全国の医師の半数強、約16万8千人が加入している。日医、都道府県医師会、郡市区等医師会の3層構造になっている。以上、日経朝刊、2017.6.28、1面、砂上の安心網、より引用。

リビングウィルは1970年代に米国で始まった運動であり、現在、欧米では国民の10〜40%が示しているが日本では少ないとされる。聖路加国際病院では2009年に「私のリビングウィル 自分らしい最期を迎えるために」が作成された。選択肢式である。例えば、「人工呼吸器など生命維持のための最大限の治療を希望する」「胃ろうなど継続的な栄養補給は希望する」「点滴など水分補給は希望する」「水分補給も行わず、最期を迎えたい」などがある。ただし、リビングウィルには法的拘束力がないとのことである(日本経済新聞朝刊、2017.2.2、30面くらし参照)。

 医療事故調査制度が始まってから1年(初年度)で、調査対象として届出があったのは388件(病院362件、診療所26件)。この制度は「予期せぬ死亡」が起こった場合に医療機関側が調査対象にするかを判断する。調査対象にする場合、まず届出が行われ、次に院内調査が行われる。院内調査は院内の事故調査委員会で行われる。全日本病院協会の飯田修平氏は、医療従事者がどれだけ本当のことを話すのか疑問もある、と述べている。医療機関の調査に不満がある場合には遺族が日本医療安全調査機構(第三者機関)に調査(再調査)を依頼することができる。初年度に調査結果が出て医療機関から提出された161件のうち、遺族あら再調査依頼があったのは16件であった(2016.10.12、日本経済新聞朝刊、社会面43を参照)。
 日本医療安全調査機構によれば、患者の死亡からの届出までの期間は平均31.9日であった。この届出は医療法では遅滞なくと定められている。この状況に対して、証拠が失われるなど原因究明への影響が懸念されるとコメントしている。日本医療安全調査機構は原因究明のため、CTなどを使った死亡時画像診断や解剖を行うべきだとしているが、全161件のうち72件が未実施だったとのことである(2016.11.3、日本経済新聞朝刊、社会面38を参照)。

 厚生労働省が発表する年度ごとの概算医療費は1年間に医療機関に支払われた医療費の総額を示している。公費で賄われている医療費も含まれている。労災、全額自費の医療費は含まれていない。概算医療費は国民医療費のおおよそ98%となる。2015年度の概算医療費は41.5兆円。国民1人あたりの医療費は都道府県別にみると西日本で高い傾向がある。それは西日本では病院のベッド数が多いことが要因となっているとのこと。図を見る限り、全国平均で、一人当たり1年間で約50万円の医療費が必要であるようだ(2016.9.14,日経朝刊1面および3面きょうのことば参照)。2014年時点で国民医療費約40兆円のうち約4000億円(1%)が柔道整復に使われている(2016.12.1、日本経済新聞朝刊、31面、参照).。

 日本国内で働く看護師は2014年末時点で女性約101万人、男性約7万人である。1992年(時点の記載なし)には男性看護師は約1万人(女性看護師数の記載なし)であった。1992年と比較すると看護師全体に占める男性看護師の割合は高まっている。割合は2.4%から6.8%へ増加している(日本経済新聞朝刊、2017.1.15、13面日曜に考える医療、参照)。

 2014年の日本全国の救急車出動件数(速報値)は598万件(5秒に1件)。過去最多を更新。増加の要因は高齢化であり、傷病度合いは軽症が多いという。頼れる人が身近にいないことからすぐに救急車を呼んでいるのはないかと考察されている(日経朝刊,2015.4.19、けいざい解読を参照)。

 救急救命士法で救命措置ができる場所は「救急車内」と「救急車に乗せるまでの間」と規定されている(日本経済新聞朝刊,日曜に考える,15面より引用)。

 薬剤師は薬剤師法による疑義照会が義務付けられている。東京理科大学薬学部の鹿村教授の2013年7月の調査によれば疑義照会の割合は約3パーセント(2014.7.17、日本経済新聞朝刊、34面、参照)。

 2016年10月に「健康サポート薬局」の届出が始まった。認定された場合、その旨を店頭表示できる。「かかりつけ薬局」の機能に加え、地域住民の健康相談に乗る役割を果たす薬局である。現状では認定を受けても診療報酬上のメリットはない(2016.11.27、日本経済新聞朝刊、17面、日曜に考える 医療、より引用および参照)。

 医療機関が広告できるのは医療法により診療科名や診療時間などに限定されている。医療機関のホームページ(HP)は「情報提供」や「広報」の位置づけである。広告規制の対象ではないとのこと(20160925、日本経済新聞朝刊、日曜に考える面「医療」「ヘルス」参照)。

 2014年6月現在、転職などで加入する医療保険が変わると健康保険証の診療履歴は途切れる。しかし、マイナンバーを導入することにより診療履歴を一生把握できるという(日本経済新聞朝刊、一面、2014,6,18より引用、一部改変)。政府は集めた医療情報を「原則」名前を伏せてビッグデータとして活用しようとしているらしい。しかし、この「原則」というところが私は気になる。「原則」以外の使用もありうるからだ。ちなみに政府は、それらのデータを医療者側が参照することによって、患者の病院受診時の待ち時間の短縮にもつながるというメリットを主張しているが、それらを確認するのはやはり看護師などの人となる。人が足りなければ意味がない。このメリットには疑問がある。2014年6月18日時点での政府の方針である。マイナンバー法の成立時点、つまり2013年5月時点では個人の医療情報を第三者が使うことに日本医師会は反発している。


 入院費の定額払いの現行ルール(2013年度までのものと思われる)では、入院直後ほど高い。そして入院が長引くほど入院費が安くなっていく。このルールでは患者を一度退院させ、3日を超えて再入院させることにより、入院直後の高い入院料を病院側がまた取れる。患者を一度退院させ所定の日数を経過させたのちに再入院させることにより病院がより多くの収入を得ることができる。患者側の必要性ではなく、病院側の経営上の都合でこのようなことが行われているのかについて私はその事実を確認していない。しかしながら、厚生労働省の調査によると、一時入院後1〜3日以内に再入院したケースは年3万件、4日後の再入院は2万件、5日後は3万5千件とのことである(日本経済新聞朝刊2014.3.26一面を参照、および引用)。大雑把な推論ではあるが、高い入院費が取れない1〜3日以内の再入院(1日、2日、3日後の合計の数値なので一日あたりでは平均して1万件)より、4日後、5日後の再入院の件数が多いことから、病院側の都合で意図的に行われている可能性はある。

 厚生労働省によれば、2012年10月時点で全国の病院は8565であり、そのうち約7割が200床未満の中小病院である。近接する病院が高報酬を請求できる急性期の患者の受け入れを競っているらしい(日本経済新聞朝刊、2014.3.28一面を参照、および引用)

 厚生労働省によれば全国の精神科入院患者数は28万9千人(時点不明)であり、そのうち64%が長期入院患者(1年以上)である。2014年現在では、長期入院患者数は18万5千人である(日本経済新聞朝刊、2017.1.10、30、社会面、参照)。この人数は国際的にも高い水準と言われているが他の比較もしてほしい。例えば、日本国内の精神科以外の入院患者数と精神科入院患者数の比である。また、国民医療費の観点から言えば、精神科入院患者にかかっている医療費は国民医療費の何パーセントにあたるか、などである。本記事によると、厚生労働省は2020年度末までに3万9千人の精神科長期入院患者を減らすことを目標としているようである。主観的な意見だが、現在の社会情勢は悪い。だからこそ精神科入院患者は増えているのではないだろうか。2020年度末までにそのような社会情勢を変えないまま精神科入院患者を地域社会へ戻すのであれば、結果として患者の病状をより一層悪化させることになるのではないかと思う。社会側の受け入れ態勢が整っていることが精神科入院患者を減らすことの前提である。
 2015年度に全国で措置入院した新規患者は約7100人とのことである(日本経済新聞朝刊、2017.1.26、38面社会参照)。

 健康保険の加入者別に見た1人あたり平均所得は、国民健康保険で83万円、後期高齢者医療制度で80万円とほぼ同じ。協会けんぽが137万円、健保組合が200万円。それぞれの1人あたり医療費を見ると、協会けんぽと健保組合では15万円くらい。国民健康保険で約30万円、健保組合で約90万円となる(2015.3.4、日経朝刊「きょうのことば」の表を参照)
 このことについて私なりに解釈すると、健康な人は中小企業、大企業で働けるから協会けんぽ、健康保険組合、健康を害している人は企業では働きづらいから国民健康保険、のようにも見える。

 

 2014年に導入された地域包括診療料は、かかりつけ医で医療費が定額になるものだが、医療施設からの届出は全国で122施設しかなかった。18府県では届出が全くなかったとのこと(日本経済新聞朝刊2015.4.9、政治欄4面より引用)。常勤の医師が3人必要といった条件があることが届出が増えない要因の一つと考察されている。とすると、データについて、常勤の医師がもともと3人以上だった医療施設のうち何パーセントが届出をしたか、という表示もしてほしい。それから、常勤の医師が3人以上の診療所というのはそう多くないと私は思う。全国の診療所のうち何パーセントの診療所が常勤3人以上の診療所なのかもデータとして示してほしい。地域包括診療料の届出がなかった府県では、そもそも常勤医師が3人以上の診療所が無いか、少ないのではないだろうか。

 経済協力開発機構(OECD)によれば、日本人は一人あたり年12.9回医師の診察を受けるとのこと。かかりつけ医が定着している英国では5.0回、ドイツでは9.9回とのこと(日本経済新聞朝刊20160911,17ページより引用)。

 2012年9月4日の中日新聞夕刊「記者の眼」によれば日本の国民の0.2パーセントにすぎない人工透析を必要とする患者が日本の総医療費の4パーセント近くを使っている。
 全国健康保険協会(協会けんぽ)の「人工透析に関する分析(平成22年4月〜8月)」によれば、人工透析患者の一ヶ月あたりの医療費の平均は47万9千円程度とのことである。


 予防や健康増進活動によって健康状態の改善効果は見られるが医療費節減効果はほとんど確認されていない。しかしながら、禁煙プログラムについては余命延長と医療費節減の両方の効果が確認されている(日本経済新聞朝刊2014.8.10、3面参照)。ただし、この「けいざい解読」欄の編集委員の山口さんの考えでは、長期的に見れば、寿命が延びる分で余計に医療費を使うとのことだ。
 

 厚生労働省が2011年に実施した調査によると、日本のジニ係数(0〜1の値をとり、1に近いほど格差が拡大していることを示す)は0.5536だった。低所得者へ所得を再分配した後の値は0.3791であった。これは再分配によって格差が是正されていることを示す。しかし、結城(河北新報夕刊2014.3.13「にっぽん診断」)によると、社会保障サービスを利用できていない潜在的な弱者がこの計算には反映されていない。結城は、厚生労働省が2010年に公表した「生活保護の捕捉率」が国民生活調査を基に推計した場合、約32パーセントであるというデータを根拠の一つとしてあげた。これは生活保護基準未満の世帯の68パーセントは生活保護を受けていないことを示すデータである。つまり、それらの世帯へは所得の再分配が行われておらず、所得の再分配後のジニ係数(0.3791)には反映されていないということである。日本の現実の格差は厚生労働省の報告よりも大きいと考えられる。

 米国では1960年代から子どもたちの機会均等に関する議論が始まり、1966年に社会学者ジェームズ・コールマンが「教育機会均等調査」を実施した。その結論は、子どもたちの学力差は学校の要因よりも出身階層(親の社会的地位)によるところが多いというものであった(白波瀬佐和子、経済教室、15面、日本経済新聞朝刊、2016.12.26より引用、一部要約)。白波瀬は、このような家庭環境の要因とともに出生時期も機会の不平等の要因として捉えている。

 日本経済新聞朝刊(2016.12.5、29面 地域総合)によると、日本の人口1億2823万人の中で納税義務者は6034万人(住民税の納税義務があった人数)である。つまり、日本国民の半数以上が納税義務者でないことになる。納税義務者でない者は次のように分類される。配偶者控除対象者、扶養控除対象者、16歳未満扶養親族、生活保護受給者、いずれにも該当しない人(子ども、控除対象とならない配偶者を含む)である。データから導き出すと約4500万人が低所得者とのことだ。国際的に見ると、日本で非納税者が多いのは、税制上、高齢者の優遇が要因としてあげられている。例えば、65歳以上の年金受給者の課税最低限が155万円となっており、勤労者の課税最低限(所得税ならば103万円)より高く設定されている。


 国際的に長時間労働の基準とされるのは週49時間以上の労働であり、厚生労働省の調べでは日本は23パーセント、アメリカ、イギリス、フランスは10パーセント強(日本経済新聞朝刊、2014.10.3付け、きょうのことば参照)とのことである。しかし、これは労働基準監督署が把握している分(社員が40時間を超えて働く場合には届け出が必要)と考えられるので、届けていない違法な労働をさせているケース、サービス残業を含めれば長時間労働の基準を超過しているものは23パーセント以上となると思われる。
 労働政策研究・研修機構主任研究員の池田心豪氏が労災の専門家の言葉を引用している。「日常生活において、子どもが生まれる、親が年老いて介護が必要になる、自分や家族が病気をするといったことはありふれている。そのありふれた出来事が自分の会社の従業員には起こらない前提で管理する方がおかしい。(後略)」(日本経済新聞朝刊、2017.1.21、33面女性欄より引用)というものである。2017年1月1日より改正育児・介護休業法が施行された。池田氏によれば、介護のための所定外労働(残業や休日労働)免除が規定され、労働者の申し出により介護終了まで所定外労働が免除されるとのことである。規定ができても、企業側に申し出をさせないプレッシャーが存在すれば規定は機能しないのであり、労働者が積極的に申し出て利用者が増加するという改正法がきちんと機能している社会をとなることを私は望む。

 総務省調査(12年)によると、職種別で週60時間以上の労働者の割合は医師が41.8%で最も高い(日本経済新聞朝刊、2017.4.3、15面医療・健康より引用)。教師が20数%であるからかなりの割合と思われる。同記事では、大阪府済生会吹田病院の独自の「ナースバンク制度」について触れている。希望すれば「週1回、1日2時間」の短時間から働けるそうだ。このような制度があることによって、むしろたくさんのナースが集まり、優秀な人材の獲得、医療の質の向上につながるのではと私は思う。医師にこのような「医師バンク制度」があるとよいが医師の数はバンクを作れるほどには足りていないのだろう。

 厚生労働省が労働時間の適切把握指針を作成した。それによると、制服や作業着に着替える時間、業務終了後の清掃、待機時間も労働時間に含めるとのことである(日本経済新聞朝刊、2017.2.4、38面社会参照)。労働時間について議論するのであればその元となるデータは正確でなければならない。過少申告をさせてはならない。

 労働政策研究・研修機構主任研究員の池田心豪氏が「日本はサービスを受ける者にとってはこの上ない「おもてなし」の国であるが、サービスを提供する者には厳しい社会である」と指摘している(日本経済新聞朝刊、2017.1.7、33面女性欄より引用)。これを顧客優先主義と言う。サービスを提供する側というのは対消費者で言えばお店側、対市民で言えば自治体側、つまりお金を稼ぐ必要がある側、税金による収入によって働いている側だと言える。以上のことから考えると、無理に働く必要がないお金持ちにとっては、厳しくされることが減り、かつクレームをたくさん言え、良いおもてなしを受けられるという、お金持ちにとってかなり都合の良い社会(国家)であると言える。

 労働基準法は国家公務員には適用されない(渡辺賢、なぜ国家公務員には労働基準法の適用がないのか、日本労働研究雑誌、No.585、2009(4)に詳細あり)。地方公務員では適用されるが教員には適用されない(萬井隆令、なぜ公立学校教員に残業手当がつかないのか、日本労働研究雑誌、No.585、2009(4)に詳細あり)。このように日本労働研究雑誌で問題提起されているようです。

日本労働研究雑誌へのリンク

文献1
http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2009/04/pdf/042-049.pdf
文献2
http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2009/04/pdf/050-053.pdf


 国立病院や自治体の運営する公的病院は医療法人ではない(日本経済新聞朝刊、2014.10.4付け、きょうのことば参照)。

 医療法人の理事長は医師資格を持っていることが原則だが、都道府県知事の認可を受けた場合には医療法人の理事の中から理事長を選ぶことができる(日本経済新聞朝刊、2014.10.4付け、きょうのことば参照)。

 医療経済研究機構などの研究チームがレセプトデータベースを分析した結果、2012年4月から2013年3月に知的障害と診断された3歳〜17歳の2035人(1年間追跡)のうち1度以上抗精神病薬を処方されたのは12.5%であった(日本経済新聞朝刊、2017.1.15、38面社会参照)。同記事によれば、知的障害には自傷行為や暴力などの行動障害を伴うことがあり、その治療のために処方されたと考えられるとのことである。


 厚生労働省の公表によれば2013年4月の全国の待機児童数は約2万7千人。政府の「待機児童」の定義では第一希望の保育所に入りたくて待機している、入所をあきらめて申し込んでいないケースは含まれない。そこから潜在的な待機児童という考え方が生じるが、ある推計によれば潜在的な待機児童をふくめた数は40万〜50万人とのことである(日本経済新聞朝刊、2014.7.20付け、一面参照)

 東京都町田市では2016年に保育園や幼稚園での小学生の一時預かりを始めた。認可保育園「町田わかくさ保育園」をはじめ、実施施設は7園。卒園児でなくても利用できるとのことである(日本経済新聞朝刊、2018.1.16、26面、くらし、参照)。記事には保育園で園児と小学生が一緒に食事をとっている写真が掲載されており、その姿を見ると微笑ましい。保育園児と小学生が同じ場にいることはお互いにとって成長を促す良い刺激になると思われ、例えば、その保育園の卒園児であれば自分が以前ここに居たんだという懐かしさとともに自分の成長にも気づくであろう。これらの心理的効果を考えても素晴らしい試みであると思う。

 内閣府によると2015年に起きた保育施設での死亡事故は14件。そのうち10件が認可外保育所であった(日本経済新聞朝刊、2017.1.9、一面参照)。紙面では、「認可外保育所」「認可保育所」「その他(認定こども園とミニ保育所)」のカテゴリに分けられた死亡事故件数(1年間)の推移が示されている。2010年から2015年にかけてグラフとなっており、この期間では認可外保育所は死亡事故の過半数を毎年占めていることが分かる。
 認可外保育所は2015年3月時点で8038ヶ所であり、利用児童数は約28万人(事業所内保育所を含む:A)である(日本経済新聞朝刊、2017.1.9、一面参照)。保育所全体の利用児童数(事業所内保育所を除く:B)が約240万人であり、一割程度の児童が認可外保育所に預けられていることになる(日本経済新聞朝刊、2017.1.9、三面、きょうのことば、参照)。このデータは時点は同じであるが、集計時に「事業所内保育所」を含んだ児童数(A)と、「事業所内保育所」を除いた児童数(B)が使用されているため、統計上の扱いとしては正確な手順ではない。しかしながら、認可外保育所に預けられている児童数の割合はおおよそ実態を反映していると思われる。ところで、本記事では無認可保育所にも基準が設けられていることが示されており、無認可保育所では職員の3人に1人が保育士であることが求められている(日本経済新聞朝刊、2017.1.9、三面、きょうのことば、参照)。認可保育所は原則全員が保育士である必要があるが、無認可保育所では保育士でなくても職員として働けるという余地ができるため、保育士不足の時代に職員を集めやすいという利点が存在するかもしれない。子育て経験者であり、保育士資格を有していない方が即戦力として働ける場所ともいえる。

 保育所利用の効果は「社会経済的に恵まれていない家庭(母親の学歴を代理指標とした)」ほど高い。すなわち、子どもの多動性、攻撃性の低減、および母親のしつけの質、母親の幸福度の増加への寄与が大きい。分析には厚生労働省の「21世紀出生児縦断調査」を利用。以上、日本経済新聞朝刊(2017.6.22、31面、経済教室)掲載の山口慎太郎さんの分析による。山口さんは同記事において、恵まれない家庭のみを支援対象にすると、支援を受けられない家庭に不公平感が生じ、社会階層間で断絶が生じる恐れがあることまで指摘している。保育所利用の効果のみならず、先まで見据えているところが素晴らしい。

 幼稚園での預かり保育が増えているようだ。それは保護者のニーズによる。幼稚園では保育士ではなく教諭(幼稚園教諭)が配置されているため、子どもの学習能力を高めるために有利である(日本経済新聞朝刊、20170204、26面くらし参照)。私の考えでは、保育所ではなく幼稚園を利用できる家庭のほうが経済力が高く、子どもの教育に対して熱心なのではないかと思う。おそらく保育所を利用している家庭よりも幼稚園を利用している家庭のほうが習い事も多いのではないだろうか。

 文部科学省の「学校給食実施状況等調査」の2015年度結果によると中学校(国公私立)の82.6%が「完全給食」(主食・おかず・牛乳が揃ったもの)であったとのこと(日本経済新聞朝刊、2017.2.4、39面社会より引用、一部改変)。

 児童虐待の通報や相談を受け付ける全国共通ダイヤルは2009年10月から始まった。当初は10桁の番号だったが2015年7月より3桁の番号(189)となった。「189」の番号となった2015年度の電話数は23万3880件となり、前年度の10倍以上(11.6倍)となった。しかしながら、番号を3桁にする前は5割程度だった接続率が、3桁にした後は1割程度になったとのことである。この原因を音声案内だと厚生省は認識しているようで、コールセンターの担当者が直接対応する仕組みを2017年度中に導入することのことである(日本経済新聞朝刊、2016.12.20、社会38面参照)。

 刑事施設(刑務所や少年刑務所など)は日本全国に77あり、全体の収容率は2013年末で77.5%であった(日本経済新聞朝刊、2014.12.21付け、35面参照)。

 「犯罪被害者支援弁護士フォーラム」の2015年の調査によると、殺人や傷害致死事件で2005年以降に賠償命令が確定した13件のうち11件では賠償金が全く支払われていないとのことである(日本経済新聞朝刊、2017.5.5、27面社会欄)。民事訴訟によって賠償金が支払われることになっても被害者側は実際には受け取れていないケースが多いことがわかる。これは加害者に預金がないからという意味ではなく、民事執行法上、預金を差し押さえる場合には被害者側が加害者の口座を特定しなければならないという手続き上の困難さがあるからのようだ。賠償金が支払われることになったことと実際に支払われることとの間には大きなギャップがあるようで、このあたりが不完全とも思われる日本の法制度である。


 日本では母乳育児を6ヶ月以上継続している母親は82.4パーセント(日本経済新聞朝刊、2014,12,19付け、34面「風」より引用)。同記事によれば、母乳による育児には、子どもの免疫強化やミルク代がかからないというメリットがあるとのことです。

 総合周産期母子医療センターは出産時のリスクが高い妊婦などを受け入れている。2016年4月時点で全国で105施設ある。厚生労働省は2016年度中に総合周産期母子医療センターの要件として妊産婦の精神疾患への対応を指針に明記する予定であるちなみに「総合周産期母子医療センター」と「地域周産期母子医療センター」は別のようなので注意が必要(日本経済新聞朝刊,、2016,11,28、38面社会、を参照)。


 日本の養育里親の登録は7489世帯(2013年度末時点)(日本経済新聞朝刊,2015,4,6付け35面社会欄より引用)。

 厚生労働省の人口動態統計の年間推定(2014年)によれば、出生数100万1千人、死亡数126万9千人、婚姻件数64万9千組、離婚件数22万2千組とのこと。死亡数が戦後最多。婚姻件数が戦後最少。死因別に見ると、1位がん(37万人)、2位心疾患(19万6千人)、3位肺炎(11万8千人)、脳血管疾患(11万3千人)となっている(日本経済新聞朝刊,2015.1.1付け、46面よりデータを引用)。
 同じく厚生労働省によると、2015年の死亡者数は約130万人であり、死亡者数はこの20年で4割増とのことである。一方で火葬場数は2015年度末時点で約4千ヶ所であり、同じ期間で半減している(日本経済新聞朝刊、2017.01.28、43面社会参照)。これらのことから近年では火葬場の順番待ちが生じているようだ。

 社会保障制度のことかと思われるが、今は1人の高齢者を薬2.3人の現役世代が支えているとのこと。この現役世代の計算は15歳〜64歳としており、実態を反映するには20歳〜64歳として計算すべきだ、との指摘あり(住宅新報,2016,10,4付け、住まいは長寿を支えるか8)。

 NPOリバースモーゲージ推進機構理事長の倉田剛によれば、厚生労働省のリバースモーゲージ(生活福祉資金長期貸付制度)は持ち家高齢者に対し生活資金を融資して死後に持ち家を売却して一括返済してもらう仕組みだが、高齢者の実態を考慮した仕組みとは言えないようだ。例えば、同居人が居ないこと、その家に住み続けることが融資の要件とされている。つまり、単独で自立生活をおくるのが困難な高齢者は利用できない。途中で、介護のために家族が同居したり、老人施設に転居した場合には融資が打ち切られ一括返済を迫られるという(日本経済新聞朝刊、2017.2.2、31面経済教室、私見卓見参照)。私も倉田氏と同様、制度設計は実態を考慮しなければならないと思う。

 2015.2.10付けの日本経済新聞「大機小機」コーナーを執筆した方によれば、生鮮食品を除いた消費者物価に占めるエネルギーの割合は8パーセントだそうだ。原油価格が下がっているのだから物価はもっと下がらなければならない。


<キリスト教の視点>

 私はクリスチャンではありませんがキリスト教から学べることは多くあると思っています。そのため、心に残るもの、またデータなどを集めて記載しています。

 旧約聖書の掟に「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈りつくしてはならない。収穫後の落ち穂を集めてはならない(中略)これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない(レビ記 19・9-10)(本間研二, ささやく声に耳を澄ませて, こじか,No.2537,2016.10.23参照)。自分に権利があるものだからと残さず自分のものにすることは、貧しい者の取り分まで奪ってしまう。このような自分の権利のみの主張が現代社会にはよく見られると思います。旧約聖書の時代のこの掟はよく考えられていると思いました。社会福祉のために必要な視点ですね。

 幼児教育についてですが、例えば、難民のために募金をするという活動について、お母さんから募金するお金をただもらうのではなく、好きなガチャガチャをがまんするなどしてその分を募金するという方法があります(柴田潔, ささやく声に耳を澄ませて, こじか, No.2546,2016.12.25参照)。教育において保護者がお金を与えてそれを募金させることは形として募金をしているだけで経験が伴っていないといえます。その点、この方法は自分が行った行為が関連づけてあります。
 この募金を委ねた難民支援協会からの次のような報告があったとのことです。園児さんと同じくらいの2人のお子さんを連れたお父さんが支援協会を訪れたが一時宿泊施設は満室だった。そのため急遽ホテルを手配した。子どもたちは泣くこともわがままを言うこともなかった。この報告者は、お父さんが子どもを守るために必死で、それを子どもたちが察していたからお利口だったと考えているようです(柴田潔, ささやく声に耳を澄ませて, こじか, No.2546,2016.12.25参照)。それ以外にも要因はたくさんあるでしょうから、お父さんの様子を察していたからこの子どもたちはわがままを言わなかったと決定付けることはできません。しかしながら、親が必死に子どもを守ろうとしているときにふざけるような子どもは少ないのではと思います。現代社会の中で生活態度が乱れている一部の子どもたちは、親が必死に自分たちを守ろうとする姿を見ていない、実感していないからかもしれないと思いました。

 朝日新聞「天声人語」(2016.6.26)に福井市の仁愛女子高校の傘の無料貸し出し活動「愛の傘」が紹介されていたとのことである(ちがっているから、きみらしい!第193回、こじか、No.2548、2017.1.15参照)。それによれば、突然の雨でずぶぬれになったお年寄りを見た生徒の声から始まった活動(貸し出し用の傘を駅に200本置く)が傘の返却率の低さ(9割が返却sれないとのこと)から活動停止となったとのことである。学校現場では、生徒が行う活動は教師から押し付けられる(あるいは暗黙のうちに善意ある活動へ方向づけされる)ことがあると考えられる。そのため、この「愛の傘」がどの程度生徒の関与度が高い(教師の関与度が低い)運動なのかが不明だが、もし生徒の関与度が高い場合、生徒は世の中の大人(利用者をここでは大人と推定することにする)の行動に対して強い不信感を持つ(社会に対して不信感を持つ)ことになるだろう。「ちがっているから、きみらしい!」を書いている著者「どうしようオジサン」は、傘が使い捨てが当たり前の雰囲気になっていることが原因と考えているが、今回の傘は貸してある傘であり、主因は責任感の無さだと思われる。小さな約束であってもそれを守る態度は重要である。特に子どもに対して大人は範を見せなければならないのではないか。

 「ろうそくを見つめていると、よい黙想ができます。光をともすためにろうは溶けてなくなっていきます。私たちもろうと一緒ですね」(ささやく声に耳を澄ませて、こじか、No.2597、2018.2.25より引用)という言葉がありました。90歳近いシスターがよくおっしゃていた言葉とのことです。聖堂の中にあるものは、目に見えるものを通して、見えない真理を私たちに悟らせてくれると筆者である大河内妙さんがおっしゃっています。この、ろうそくのたとえはいいですね。

 日本にいるキリスト者はカトリックとプロテスタントなどの諸派を合わせて約1パーセント(100人に1人)とのこと(イエスさまといっしょ、こじか、No.2551、2017.2.5参照)。これまで述べたような事例に見られるような思考、および価値観に親和性を持った人々は日本ではかなりの少数派のようですね。

 「ガンバるから、神さまは愛してくれる」んじゃありません。「神さまが愛してくれるから、わたしたちはガンバれる」んです(おはなしして、イエスさま!、こじか、No.2559、2017.3.11より引用)。キリスト教の論理では神さまとなりますが、ここで言う神さまは、父母やその他の家族、友達のことではないでしょうか。愛されている経験をした人はやはり強いと思います。そして、そういう経験をした人は愛することが自然にできます。そういう人たちで溢れる世の中になってほしいなと思います。
 ところで、こじかの今号では次のような記述もありました。「教会学校はよい子を作るところではありません。子どもたちが愛されていることを知るところです」(教会学校の羅針盤、こじか、No.2559、2017.3.11より引用)。保育園、幼稚園、小学校、中学校、全部そうではないでしょうか。カトリック系の学校においてこのようなことを中心として教育が行われているのだとしたら素晴らしいことです。